Ishikari, Japan
浜益区川下6
N/A
案内板や説明板がありとてもよかった。 が、陣屋跡を分かりやすくするために木を伐採しているが、伐りっぱなしにしているように見受けられた。また、強風で柱が一部抜けている?抜かれた?のかわかりませんが、落ちていた。 更にゴミが捨てられていた。陣屋入り口から中を見たときにはビニールやら漬物プラスチック樽やら笹の中に。おいおいと思った。そして、ジンギスカンの袋までも?史跡はゴミ捨て場ではないに。
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奉行長屋跡は草刈りもされているのですが、その他の建物跡は笹が密生している状態でした。せめて五十間堀の草刈りだけでもされていれば印象も変わったかもしれません。
石狩市さん発掘・平面復元を何時までもほぼ浜益村時代のままではねー
手入れはされてましたが 何も建物は有りません 案内図だけの説明です
知らなかった。幕末の歴史。予算あるならもう少し再現できたら観光名称なりそう
最近、草刈りしてくれたみたいで散策出来ました。
門が残ってるだけで後は「ココに建物が残ってましたよ」的な看板があるだけで何もありません、土地が残ってるだけです 結構広いです全部歩き回るとしたらかなり時間かかります、それに多少手入れはされているもののそれなりに獣道になっています 予算があれば建物を再現建築しても良さそうですが、ありそうにないですね 原チャリで来たので中まで乗ったまま入りましたが良い感じのオフロードです(途中降りた所もありましたけど)ここでラリーでも開けば多少はお金になりそうです
①もっと知られてもいい場所だと思う。 ②説明文より安政6年(1859年)、幕府は蝦夷地を奥州6藩に分け与え、その警備を命令しました。 荘内藩は本村を含む日本海に面する西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)40余里に及ぶ地域を拝領しました。翌、万延元年、家老松平舎人を総奉行として現地調査を行い、意見書を提出しました。この調査を基に二代目総奉行酒井玄蕃了明が赴任し、警備・開拓の本陣を「ハママシケ」(浜益)に設けたのがこの場所で、奉行所をはじめ寺・神社・長屋などを建て、集落が作られました。 一行は永住計画に基づき各種の職人・農民を集め、人員の運搬など蝦夷地渡航用に2隻の弁財船も建造し往復しました。このとき黄金川からこの場所まで水路を設けましたが、その資金が金千両を要したことから「千両堀」と称され現在も残っています。 その後戊辰戦争が勃発して事態が変わり、慶応4年(1868年)には引き揚げ作業が始まり7年に及ぶ年月と莫大な費用をかけた荘内藩蝦夷地拝領地の警備・開拓は終わりました。
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